入浴介助によって障害の受容が進んだような…

お疲れ様です、福嶋です。
冷えますね。
電動車椅子で通勤する僕にとっては、手先が容赦なくかじかんだり右肩が凝ったりするという、夏とは違う意味での厳しさを感じる時季になりました。
みなさんはいかがでしょうか。
どうぞ、体調を崩されないようお気をつけください。

さて、僕は障害者です。

なにを今さら、という感じですが、心底、このことを自認して、こんな感じで何の躊躇いもなく(自分を含めた)みなさんに対して言えるようになってきたのは、実は、ごく最近のことだよなぁ、と、つくづく思うのです。
そのきっかけは、間違いなく、9月8日から始まった入浴介助でしょう。

入浴介助。
僕にとっては、今であってもなお、(ものすごく時間はかかるけれども)自分独りで入れないわけではないというお風呂を、誰かに手伝ってもらうということ。

想像してみてください。
毎日、違う人の前で全裸をさらさなくてはならないということ。
そして、いろいろなところを触られ、いろいろなところに触れられるということ。

このことが、客観的には入浴介助が必要な状態であろうと自覚しながらも、二の足を踏み続けていた理由だったようです。
さらに深掘りすると、まだ、身体を半端に(限定された範囲で、とてもゆっくりと、という意味で)動かせてしまうし、頭の中には当然のように独りで動作(お風呂にはいることを含む)していた頃の記憶がびっしり残っているという中途障害者なものだから、ということも、少なからず、入浴介助を躊躇わせていた原因だったと思うのです。

でも、この夏の入院での(強制)入浴介助を経て、実際に自宅でも利用するようになったのは前に書いたとおりですが(風呂は楽 思い出させてくれたから 九月八日(くがつようか)は 「介助記念日」」)、これをきっかけに、ほぼ毎日、繰り返しているうちに…、という感じで、気付いたら、「慣れました」。

この「慣れました」ということは、理屈を超えてとても力を持っています。
「異常事態」を「普通」にしてくれるのです。


こうやって、ヒトサマから介助を受けること(しかも、一糸まとわぬ姿で自己をさらして!)が、僕に、「僕は障害者です。」と、素直に言わせることを、ごく自然に、かつ、半ば、否が応でも、達成させてくれたのでしょう。
そして、このことは、無理矢理かもしれませんが、「障害の受容」のひとつの表れだと思っています。

もちろん、これは以前に比べ“相対的に”受容できてきたと感じてきただけであり、そういう意味では介助を通じた「障害の受容」の入り口に立っただけかもしれません。

まあ、でも、「何かをやるために他人から支援を受ける」という体験は、何かを成し遂げることに「事実として」他人の支援を受けるということだけではなく、(少なくとも僕にとっては、障害の受容とかも含めて)それ以上の意味を持っていることは間違いないようです。

興味がある方は、「「介助記念日」からもうすぐ2ヶ月~フクシマの「自立」への道」」もご覧になっていただければ、これまでの福嶋の軌跡がもう少しおわかりいただけるかもしれません(福嶋本人はいまいち分かっていないようですので、分からなくても何の責任も負いません。あしからず)。

…ここまで書いてて、また、まとまりのない文章になりました。
はい、よく言われます、くどいし何言ってるかわからないって。
そういう意味で、ここまで読んでくださったあなた、本当にありがとうございます!
また次回、くどくどしい文章か、本当にあっさりと風景の写真の掲載かでお目にかかりましょう。
それでは、また!

投稿者について
入浴介助によって障害の受容が進んだような…

福嶋哲平

障害は多発性硬化症による両下肢と右上肢の機能障害、双極性感情障害など。
中途障害者です。
土日は、もっぱら、近くのスタバに電動車椅子で乗り付けて、長時間こもっています。