「介助記念日」からもうすぐ2ヶ月~フクシマの「自立」への道

お疲れ様です、福嶋です。
10月も下旬になると、ここ、鹿児島も、他のところにおいてかれまいといった感じで、朝晩は(涼しさをすっ飛ばして)冷え込みを感じるようになりましたね。
今年も、「秋なし鹿児島」でした。

さて、先月から入浴介助を受けるようになったのはすでにお伝えしましたが(https://cil-hikari.com/2025/09/19/2686/)、それからもうすぐ2ヶ月が経とうとしています。
それまでは、時間と手間がかかりすぎて苦行にすらなっていた、「お風呂にはいる(僕の場合は、単にシャワーを浴びるだけなのですが)」という生活の一場面が、入浴時にヘルパーの支援を受けることで、「そんなにかまえなくても大丈夫だよ、気楽にいていいんだよ」というものに変わったわけです。
まさに、コペルニクス的転回!(その気持ちを詠んだのが、「風呂は楽 思い出させてくれたから 九月八日(くがつようか)は 「介助記念日」」という一首)
いや、正しくは、コペルニクス的転回ではないですね。
以前の感覚を取り戻した、というか、以前の「シャワー浴びる」を思い出した(ヘルパーがいるという意味で、完全にではないですが)、というか、より厳密に言うと、新たな形の「シャワー浴びる」を開拓したということができるかもしれません。

それで、何がお伝えしたいかというかというと、僕はこのことを経験して、一段階、「自立」というものに近づくことができたのかな、とか思っています。

全部を自分の手ですることが「自立」ではない、ということは、この世界に入って以来、頭では理解しているつもりでした。
だけど、自分自身は、全く、それを体現できないでいました。
何かをする場合に、他人に頼めば容易に、かつ時間も短くできることは明らかなことでも、ちょっと努力すれば自分でできる類いのものは、助けを求めることなく自分で成し遂げることが善(=努力しないでたやすく助けを求めることは悪)という、(今考えると)ものすごくねじ曲がった、ヘンテコな根性論があったためでしょうか(いまでも完全に消えているわけではない)、素直に「手伝って」が言えませんでした。
もちろん、その考え方が絶対的におかしいとは思いません。
だけど、特に「自立」にはそぐわない部分も多そうです。

そういう意識が強い人間でも、健常者だったら、どうぞご勝手に、の世界だと思うのです。
だからこそ、僕の面倒なところは、身体的には機能障害のために動かしづらくなっていくのに、精神的には以前のまま(=自分でやらなきゃダメ!)、ということができるでしょう。
これは、大人になってからの、しかも、徐々に機能が衰えていく(=できることもまだある)というタイプの中途障害者だからこそじゃないかな、とも考えています。
そして、同じような思いをされている方は、実は、案外、多いのではないでしょうか。
もし、いらっしゃったら、ぜひ、お話ししましょう。

 

それにしても、入浴介助のおかげで、ひかりの理念である「“人”として自分らしく輝ける」を体験できた、と思っています。
この経験、これからの活動で活かしていきたいと思います。

投稿者について
「介助記念日」からもうすぐ2ヶ月~フクシマの「自立」への道

福嶋哲平

障害は多発性硬化症による両下肢と右上肢の機能障害、双極性感情障害など。
中途障害者です。
土日は、もっぱら、近くのスタバに電動車椅子で乗り付けて、長時間こもっています。