出かける前は、いつもこう考える。今日はあれをやって、これもやって、ついでにあれも片づけて──。
もちろん、その全部をやり遂げられたためしはない。それは昔からで、たぶん多くの人がそうだと思う。ただ最近、その「できなかった」の範囲が、じわじわ広がってきている気がする。
これを障害のせいにするのも、年齢のせいにするのも簡単だ。実際、そのどちらもいくらかはあるのだろう。でも、なんだか納得がいかない。いわゆる健常者だったら、「できなかった」の理由に、年齢はともかく、障害なんていう但し書きはつけなくていいはずだからだ。ただ「(年甲斐もなく)盛り込みすぎた」で済むだろう。でも、僕の場合は、そこに一言、余分な説明がくっついてくる。
正直に白状すると、これは「昔はよかった」というやつだと、自分でも分かっている。歩けていた頃の自分を勝手に美化して、憧れているだけ。並べて比べることなんて、本当はできないのに。
──と、ここまでが、いつもの愚痴だ。
でも、今日はもう一歩だけ進んでみたい。できることが減っていくのを、僕はどうしてこんなに恐れるんだろう。たぶん心のどこかで「できることの多さ=自分の価値」だと思っているからだ。できないことが増えた自分は、価値が目減りしていく──そんなふうに、無意識に採点している。
そして、その採点表は、どこから持ってきたものだろう。おそらく、健常者の世界からだ。何でも自分でできることが一人前で、人の手を借りるのは半人前。その物差しを、僕は中途障害になっても握ったままだった。
でも、自立生活運動が言ってきた「自立」は、そういう意味ではなかったはずだ。何でも自分でできることが自立なのではない。自分のことを自分で決めること。必要な助けを、自分で選び取ること。それが自立だ。人の手を借りていても、自分で決めているなら、その人は自立している。
この物差しで測り直すと、景色が変わる。できることが減っても、僕の自立は減らない。決めているのは、いまも僕だからだ。できる/できないの軸で見ると目減りするばかりの人生が、決める/決めないの軸で見ると、ちゃんと立っている。
だから、これから自立を始めようとしている重度障害者の方に、言いたい。できないことの多さは、自立のさまたげにはならない。僕はいま、できることが日々減っていきながら、それでも自分で決めて生きている。あなたは、これから助けを得ながら、自分で決めて生きていく。方向は逆に見えるかもしれないけれど、たぶん僕たちは、同じ道を反対側から歩いている。
正直に言えば、僕自身まだ答えを持っていない。できないことが増えるのは、やっぱり怖い。今日だって愚痴をこぼしたばかりだ。でも、その揺れを隠さずに見せること。整った成功談ではなく、途中でつまずいている姿をそのまま差し出すこと。それが、いまの僕にできる、たったひとつの発信なのだと思う。
だから、これからも書きます。できなくなっていく僕のまま。