お疲れ様です、福嶋です。
私は、4月26日(土)、京王プラザホテル八王子にて行われた「中西正司さん お別れの会」に参列いたしましたので、そのご報告をいたします。
中西さんは、1986年に日本で初めての自立生活センターである「ヒューマンケア協会」を設立されて、それ以降、全国自立生活センター協議会(JIL)の代表をされて自立生活センターの普及と拡大に尽力されたそうです。
これはとてもすごいことで、何もなかったところに少しずつ障害者の介助制度を組み立てていって、現在のような制度を作られていったというわけです。
社会の人の目も、今よりもずっと厳しいものがあったでしょう。
そんな中、ずっと闘ってこられたわけです。
常に、他人からどう思われているかばかりを気にしながら生きてきた僕なんかは、到底足元にも及ぶべくもありません。
…中西さんの生前、実際にお目にかかることがなかった僕は、本とかインターネットとかで以上のような経歴を見てそんな風に思っていました。
ああ、いわゆるレジェンドであって、僕とは縁のない“雲の上の人”だな、って。
しかし、この思いは、この「お別れの会」に参列することで、僕の勘違いであることに気付かされたのです。
というのは、会場をめぐるうちに、大きくは外れていないのですが、半分くらいしかあたっていないことが直感的に分かったためです。
もちろん、会にはひっきりなしに参列者の方々がいらしていましたし、文章や動画の形で会場に掲示されていたたくさんの悼む言葉などを見たら、いかに偉大な方だったかは容易にうかがい知れます。
それはそうです。
この国はもちろん、世界中に与えられた影響と残された功績ははかりしないものがあるわけです。
だけど、同時に、展示されていた数々のものを興味深く見ていると、少しずつ、「中西正司」という人のひととなりがうかがい知れてきました。
例えば、クラシック音楽にも造詣が深かったようで、たくさんの指揮者の特徴を分析してメモしているのを見つけたときには、(おこがましいですが)自分と共通項を見つけたような気がして急に距離が縮まったような気がしました。
また、小学校低学年の頃の絵日記も展示されていたのですが、こういうものを展示することを嫌がらないのが「中西正司」という人なのかな、ということを思って、“雲の上の人”ではなく、すぐ隣にいるおじさん、という親しい感じがしました。
さて、会にはたくさんの方がいらしていましたが、僕が入ったときに一番初めに声をかけてきてくださったのが奥様の由起子さんでした。
優しそうなお人柄で、壁を全く感じさせない方でした。
やむなく参列できなかった代表と副代表の思いをお伝えすることもできました。
それにしても、展示されていた電動車椅子や着ていたジャケット、使っていた日用品、ぎりぎりまで使われていた手帳などを一つずつみていたら、また使うために、当たり前のように姿を見せそうな感じがしました。
そして、あらためて、やっぱり直接お目にかかってお話ししたかったな、と思わずにはいられませんでした。
以上、長くなりましたが「中西正司さん お別れの会」参列の報告です。
